ヤマトタケルの熊襲征討は、大産業革命!の始まりである。
読者がご存知の歴史中の熊襲(くまそ)は、日本古代史に登場し、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名であり、地域名とされるのが一般的解釈だろう。
しかしながら、衝撃的な解釈を私は掴んだ。元明治大学商学部名誉教授:一泉氏は、熊襲(くまそ)が単なる一族名ではないことを、意外な角度から証明してみせた。
その意味とは、くまそ=焼畑文明を指し、ヤマトタケルとは水田文明であり、その争いは、焼畑(=粟)を水田(=稲作)が駆逐する、血生臭い産業大戦争、大革命であったことが想像できるだろう。
■古代インドネシア語を用いて展開され・・・
香川・和歌山では、焼畑で栽培されている「そば」は、インドネシア語のコバル(kobar燃え上がる)に由来し、「おかぼ=陸稲、開拓耕地、畑」をフマ(huma)と呼ぶ。台湾原住民の言葉で(homa)ピュマは焼畑をする民のことも表す。これら、コバ、フマがクマとなり熊襲のクマは「畑作」あるいは「焼畑作」を意味するという。
一方、熊襲のソは人のこと(tao/tauは族などの意味が台湾原住民の言葉に確認される)熊襲=クマソは焼畑をする人となる。だが、焼畑をする人々は日本全国に散在していた。稲作は、縄文最末期には既に始まっていて、縄文畑作文化のアワと弥生稲作文化のイネは、相互に補完する食物として成立していたが、ヤマト勢力を強めていく支配体制を確立させるには、競争財になっていく。つまり、稲作文化を、全国の畑作・焼畑文化を圧倒し侵略した「弥生時代の古代産業革命」と、一泉氏は語る。
■ヤマトタケルの伝説:九州に入った小碓命(=やまとたけるを名乗る前)は、
熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。その後、ヤマトタケルの侵攻(産業革命の戦争)は、愛知県、静岡県から茨城県~宮城県の方まで続いた。
※参考文献:明治大学商学部名誉教授・一泉知永氏「倭国大乱と弥生文化革命」、「沖縄のくらしの文化」
文:佐々木倉之助












