前話「忍者はベジフル食がお好き」内で、忍者を初めて用いたのは蘇我馬子と聖徳太子であることを報告した。では「忍術のはじまりは?」と、探偵局は更に深く調査した。頼朝も、ひらたく言えば忍者の系統だったのだ!
忍術の歴史は仏教と共に六世紀(583年頃)に伝来した兵法書内「兵は危道なり~智略は正道で王者の道である」を元に忍術が生まれた説が有力だ。その忍術に欠かせないのが修験(シュゲン)であり、修験行者といえば山伏だ。彼らは杖術を基本に山伏兵法・武術を編み出し、後に剣術・槍術へと進化していったのだ。
「忍者は修験者・山伏説」:続日本紀参考では、姓は役(エン)で、名を小角(オヅノ)という仏教信者で修験者の頭領(賀茂氏系)で、彼は、伊豆島に流されても昼は伊豆、夜は富士山に戻って修行した伝説の呪術師がキーパーソンのようだ。探偵局は、遣隋使(飛鳥時代:600~618年、小野妹子など)が持ち帰った兵法書に始まり、山伏たちが熟成させ、平安時代の陰陽師たちにより完成される流れを支持したいと思う。
※江戸時代の冒険活劇小説、滝沢馬琴・作「里見八犬伝」でも、役小角をその犬士たちの先祖とする・・・。
■遣唐使(630~894年まで実施)たちの影響も大きく、唐から帰国した空海(真言宗・高野山)・最澄(天台宗・比叡山)によって、近畿圏の山伏たちは二派に分かれて両山を守護。さらに政治にも登用された賀茂氏が宗祖の陰陽師(安部晴明は弟子)諸術を取り入れ、山伏兵法は完成度を増した。中でも、後に鎌倉幕府を開く「源頼朝」を輩出する修験流派「鞍馬八流」には、源氏の祖・八幡太郎源義家をはじめ、源義光、源義経、源頼光(=大江山の鬼を退治した)らが挙げられ、日本の歴史の表舞台で国を支配したこともあった。
■「甲賀の里」に飯道(ハンドウ)山がある。ここは天台宗の三大修行道場のひとつとして栄え、彼らは全国を行脚し各国の情報を集め情報交換を行った。山伏修験者の情報力は各地戦国大名ともつながり、時代の流れを知る現在のITネットワークのような最先端基地だったと推測される。情報をビジネスとし殺しも請け負った。
■「伊賀の里」は、地理的にも甲賀に相当近い。伊伊賀流忍術の祖・服部平左衛門家長は壇ノ浦合戦で戦死したと見せかけ生き延びて、室町将軍・足利義晴に仕えるため京へ移住。さらに織田信長との大激戦「天正伊賀の乱」を経て、三河・松平清康(=徳川家康と関係)に仕える。ここで服部半蔵正成が出生。初代服部半蔵は伊賀出身ではない。実は、半蔵に二代目もいた。皇居の半蔵門の由来は二代目半蔵とする。
「忍者の呼ばれ方雑学」:忍者のことを何故「忍び」というのか。古くは「志能備」と呼ばれ尊重されていたが、戦国期になると、ラッパ・スッパ・トッパ(乱破・透破・突破)などと呼ばれる。マスコミ用語の「スッパ抜く」はこれに由来するだろう。概ね関東地方でラッパ、関西地方はスッパ、別名ではクサ(草)、カギ(嗅ぎ)が挙げられる。
「忍者は毒物使用の達人」:トリカブトは附子(ブス)と呼ばれ日本古来、狩猟に使われた毒物である。忍者もよく用いた。これを飲むと中枢神経を冒し醜くなったことから「ブス」という呼び名が残り、またトリカブトは草であることから忍者を草という説もある。江戸時代、八代将軍吉宗が将軍職に就けた理由には、連続薬殺事件無には実現できない話である。今さらだが、甲賀を正しくは「こうか」と読む。
出典参考:「甲賀忍者と伊賀忍者」webサイト他
筆:未過喰探偵:佐々木倉之助
■忍術発祥諸説
1)中国の遁甲術(トンコウジュツ)説=星占いの一種。起源はインドのバラモン仙術。
2)始皇帝の特命で不老長寿薬を求め来日した「徐福」説=熊野新宮に上陸し医療織物等と共に伝来。
3)日本起源の別説=大伴氏の遠祖・道臣命説













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